二十訓

松濤二十訓浩氣塾解釈版

松濤館流・始祖「船越 義珍」が、空手道を目指すもの指針として残された20の心得です。原文は漢文で非常に難解ですが、理解しやすいように平易な文で表し、自分流の解釈を加えて、浩氣塾・森田昌秋の解釈版松濤20訓といたしました。様々な文献を参照していますが、出典が定かでありませんので脚注は省略させていただきます。

一、空手道は礼に始まり礼に終わる
礼とは仁義である。仁は、自分の近くのものへの愛、義は遠くのものに対する愛。礼は人のためならず、自分ためのもの。礼と節度をわきまえることは人の世の道である。
一、空手に先手なし
空手道の探求は、克己と自制の心の探究である。空手道は、相手に向けるのではなく己への問いかけである。故に、先手などあり得ない。
一、空手は義の補け
人格完成を究極の目的とし己を鍛錬するところに義が生じる。義は人への思いやりであり、空手を通して義が伝導される。
一、先ず自己を知れ而して他を知れ
仁も義も己を空しくして虚心に自己を探求するところにその姿が把握できる。自分に気づくことがすなわち他への理解の始まりである。
一、技術より心術
肉体に宿る完成された技=技術より精神に薫る完成された人格=心術がまさる。おごる事なかれ。我が道場の銘である。
一、心は放たん事を要す
こだわりへの戒めである。広い心を持って視野を広くして地のぬくもり天の声を聞く如く・・・浩然の氣とのかねあいが悩ましいところではある。まだまだわからぬ。
一、禍は懈怠に生ず
日々油断無く精進が肝心。好事魔多しである。人間万事塞翁が馬である。楽しむとはなんと難しいことか。
一、道場のみの空手と思うな
それぞれが箇々の立場でめざす空手道がある。人生そのものが修練の道であると心がける。組手、形がいくら上達しようとそれが社会に生かされなければなんの空手道か
一、空手の修行は一生である
道場訓の一番始めの人格完成につとむること、これがめざすもので後はすべて達成するための方法を説いたものである。どれも一朝一夕には出来そうもない難事である。
一、あらゆるものを空手化せ其処に妙味あり
日常の些細なことにも自然の小さな変化にも細心の心配りを持って目を凝らしていけば思わぬ処に解決の糸口が見つけられることもある。妙味とはそういうものである。
一、空手は湯の如く絶えず熱を与えざればもとの水に返る
一度に熱を与えすぎても蒸発して何も残らない。このタイプの人間は多い。熱加減を程良く沸騰させずに冷めないように。粘り強く不断の努力を一生続けられた者に空手道の真価が見えてくる。
一、勝つ考えは持つな、負けぬ考えは必要
克己心とは己に勝つことではない。己の弱さを知りそれから逃げないことである。前向きな姿勢でいるとき人は決して負けない。それで十分、勝つ必要がどこにあろうか。勝って得られる物はないと思え。
一、敵に因って転化せよ
臨機応変の構え。どんな敵にもどんな問題にも動じることなく的確に対応できる。心にゆとりが持てる、そんな人間を目標とする。
一、戦は虚実の操縦如何にあり
妙は虚実の間にあり。敵に守るところを分からせず、また敵に其の攻めるところを悟らせず。其の構えを極意と思う。
一、人の手足を剣だと思え
空手の手足は武器である。道場稽古においても真剣勝負と心得よ。
一、男子門を出づれば百万の敵あり
精神的にも肉体的にもまた物質的にも金銭的にもあらゆる困難、問題が人生至る所に渦まいている。まさに百万の敵だ。人生を生きるとはこの困苦に逃げずに前進することである。
一、構えは初心者に、あとは自然体
構えのための構えは、初心者には必要だが、前に書いた攻めるところを悟らせず守るところを分からせない構え、空にして実、静にして動の構えをめざす。それは構えであり心のあり方である。人生に対する心のありかたともいえる。
一、形は正しく、実戦は別物
形は空手道の命であり神髄である。往年の先達が心血注いで作り上げた奥義である。しかし実戦で形通りに行くかといえばそんなわけはない。 奥義は自分に生かしてこそよみがえるものである。
一、力の強弱、体の伸縮、技の緩急を忘れるな
強と弱、陰と陽、虚と実は人生のリズムである。変幻自在に機に臨み変に応じた心と体のあり方が求められる。人生の機微である。
一、常に思念工夫せよ
楽に奢らず、窮に貧せず、難に逃げず、自分に謙虚に内省し、他を利し、あらゆることに怠りなく想念を巡らすことが肝要。洋々たる空手道と人生のために。

以上の中でいくつかを自分の血肉とし、自分流の解釈を加えて、素晴らしい我が空手道人生を送られることを希望します